みわ智恵美

三輪 ちえみ
日本共産党横浜市会議員
駆けある記

横浜に米軍機墜落から35年

2012年9月27日

今の青葉区に1977年9月27日、米軍機が墜落してから35年目の日を迎えました。

米軍機の墜落によって民家や工場が炎上。民家に住んでいた2人の幼い男の子が焼かれ亡くなりました。

和枝さんのお父様が創られた「カズエの薔薇」今年のマイガーデンで。

子どもの分まで生きてたたかうと言っていた殺された坊やたちの母親である和枝さんの突然の死は、事故から5年後の1月26日で、私も本当に驚き怒りを覚えた事をわすれられません。

和枝さんはどんなに無念だったでしょうか。子どもを焼き殺された母の思い。自らも全身火傷を負い子どもの死に目にも会えていません。

このような事故を二度と起こさせない、この事故を忘れないと全国からの募金で1985年9月29日に「平和の母子像」が横須賀市長沢の丘に建立されました。

また、この事故で工場を焼かれ家族は瀕死のやけどの被害にあった椎葉さんは、裁判を起こし勝利しました。このことを後世に伝えたいと2009年、多くの方々のカンパで「椎葉さん裁判の記念碑」も母子像の横に建立されています。

毎年、米軍機墜落の9月27日には像前集会が開かれます。神奈川県母親連絡会と新日本婦人の会神奈川県本部、安保廃棄統一促進会議が参加する「平和の母子像」実行委員会が行なっています。

横浜の港の見える丘公園のとなりのフランス山に、和枝さんの遺族が寄贈した「愛の母子像」が建立されています。

長年、家族の希望も拒絶した横浜市の判断で像の碑文が無く、通る人には何の像なのか分かりませんでしたが、像の設置から21年後に碑文が設置されました。横浜市は家族の碑文設置を拒否していましたが、米軍に配慮したのでしょうか、それとも政府からの圧力だったのでしょうか。

また、毎年、長沢の丘で開かれている像前集会はほとんどの市民には知られていません。

この事故のとき、墜落した米軍機からパラシュートで降下し無事だった米兵を救助した自衛隊のヘリコプターが現場から飛び立っていきました。

このとき米軍機の墜落で炎上する家の中で焼かれている家族はそのままでした。消防車が来ているのを自衛隊は確認したので飛去ったとウイキペディアに書かれていますが、果たして、国民の命を最優先にしていたらどういう行動をとっていたでしょうか。

米軍の事故や米兵の犯罪が起きた時に、未だにアメリカの植民地のような扱いを日本人は受け、日本政府も卑屈なまでの態度でいます。

 

 

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